ドクター紹介

松元教貢院長からのメッセージ

松元教貢院長からのメッセージ

歯科医をめざすきっかけ

私は都立大崎高校出身で、整形外科医であった父の勧めもあって手に技術を付ける職業ならまず困らないだろう、団体行動が苦手な個性的な性格のお前でも大丈夫だろうと言う説得で日大松戸歯学部に入学しました。

実を言うと、本当は生物学者、それも原生林とかに籠もる生態系を研究する学者と言うか仙人と言うか、そういう人間、職業に付きたくて、生涯研究一筋で我々が生きているガイア地球の生命体のシステムの勉強、研究をしたかった人物です。何しろ私は幼い頃から、個性的な子供だったらしく、団体行動が出来ないとか苦手とか、通信簿に書かれる子供でした。自分では普通のつもりでも、傍から見ると一人目立ってしまう子だったようです。昔から一人で何か興味を持った事には、誰も振り向かなくても一所懸命に何かしているなー、と言う単独行動を平気でする子だったのです。自分でも、集団の行動が苦手で、束縛されたり指示されたり強いられる事が苦手だったと覚えています。頭越しに押さえ付けられるのが何より嫌いで、反骨精神に溢れ、その癖、正義感が強く、ずるい事卑怯な事妬む事おもねる事が大嫌いでした。大好きなのは、たった一人でも本当に正しい事を見抜いていて、飄然として立ち行動出来る、洒脱な雰囲気を漂わせ、世情に流されない、格好の良いオヤジです。恩師サンフランシスコのDRラムのような人物です。

そういう私を見抜いてか、父は職業として歯科医を勧めました。その理由の一つとして、独立できると言うのもあったようです。学生時代は、お世辞にも良い学生ではなく、友人達に恵まれ助けられて卒業出来たのが実態です。参宮橋で開業しているはたの歯科の波多野先生など今でも勉強仲間で、いつも一緒ですが、まさにとても世話に成った方です。他にも素晴らしい友人達に囲まれて、無事卒業出来て、日本橋の松平先生の下に勤める事から歯科医として歩みだしたのです。

インプラントへの興味を抱く

松元教貢歯科医院入口

そうしていざ臨床の現場に出ると、自分の未熟さが如実に分かり、師の導きで勉強をするようになって行きました。3年日本橋でお世話になり、父は歯科医は普通3年程度で開業すると、開業を勧めましたが、私はもっと色々と勉強したくて、武者修行で法人等で勤め自分の責任で治療する環境に出る事にしました。お世話になったのは赤坂会と言う医療法人で私は市川の診療所に成りました。

その法人はその当時、赤坂、市川、東大島、西台と4つの診療所を抱え、法人のトップの意向で全体で勉強会等をして人材等の交流もしてゆこうと言う事に成り、法人で第1回の全体勉強会が開催されました。その時に私は、運命の恩師故今間司先生と巡り会ったのです。私より5歳上で、その当時今から15年ほど前、既に今間先生は、インプラントの泰斗でいらして、勝鬨橋で開業され凄い症例と数をこなされている、それも半端なレベルじゃない物凄い高いレベルの治療をなさっていた方でした。

勉強会のレベルは素晴らしいもので、その当時のインプラント治療の一般的レベルを遥かに凌ぐ凄いものでした。私はかなりショックを受け、強く興味を覚えました。

今間先生との出会い

今間先生との出会い

実は、日本橋にいた当時から、勝鬨の方でインプラントをバンバンやっている凄い奴がいると言う噂は漏れ聞いていました。初めて会った時には、その張本人とは思ってもみなかったのです。今間先生はお体を壊されていて診療所を友人に譲り、きつくない法人でしかも法人の運営も任されるパートナーとしてヘッドハンティングされ、西台の院長として赴任されて来ていたのです。所が、やはり体がきつく、院長業、法人運営とこなすのは負担が大きいと言う事で西台の院長を誰かいないか、と探していたのです。

ちょうどその時、私自身も市川での診療に頭打ちの感じがあり、それよりも全体勉強会で見させられた今間先生の仕事が気に成って、西台の院長をと言う話に手を挙げて見たのです。そうしたら、渡りに船とばかりに、代表から是非お願いしたいと言われ、とんとん拍子で話がまとまり、西台へ移動になり、今間先生と組んで仕事を出来る環境に飛び込んだのです。

これが私がインプラント一筋になるきっかけになりました。西台での今間先生の仕事はまさにスーパーマンで、背がスラッと高く痩せていて、見た目の良さ、舘ひろしと岩城晃一を足して2で割ったような、歯科医にして置くには勿体無いような二枚目で、量、質共に凄い働き振りでした。私は今でも、初めての会話を覚えています。「先生の仕事をそのまま取得すれば、私でも先生のような凄いインプラントが出来るように成りますか?」と聞いた私に先生は「おう、出来るよ。」と言って下さったのです。そこから、本格的に私の進む道はインプラントに向かったのです。

独立、そして世界最高峰のインプラント治療へ

独立、そして世界最高峰のインプラント治療へ

その後、先生の下修行して、インプラントへ傾注し、独立して良いと言うお墨付きも頂きました。そして、私は法人の要請で、東大島、市川と掛け持ちをし、果ては往診車に乗って入歯の勉強にも邁進して、片や今間先生は赤坂勤務になりすれ違いになりようになりました。

そして、私が35歳の春、突然の訃報が届いて、頭の中が真っ白になり呆然としてしまいました。今まで離れていても、ズーッと目標としていた存在が、突然消えてしまったからです。結局、私は法人に席を置く意義が見出せなくなり、自分で開業して今間先生が追い求められた夢を代わりと言っては何ですが、追い掛けようと決めたのです。

今間先生を失った後、私は自分の道を進もうと決めて、法人を去ることにしました。

開業するには、元々自分にとって地元と言える、小中高と育った大田区が良いと決め、地元に戻りたい、と考えて開業地を決めました。

添島先生へ師事、そしてラム先生との運命の出会い

そして、開業した1年目からKIRGインプラント研修、九州インプラント研修会100時間コースに参加して、そこで熊本の添島義和先生、世界の添島と呼ばれる先生に師事するようになりました。
そこから始まり、翌年博多の船越歯周病研修会1年コースにも参加して、師事するようになりました。

その伝手で2000年6月ボストンで開催されたPRD歯周補綴歯科学学会に参加して、世界の学会、本当の生の情報に触れられることに喜び、同じ2000年9月ホノルルのAAPアメリカ歯周病学会に参加することにしたのです。
そこで、運命の恩師ラム先生と出会いました。

ラム先生は、その学会の最終演者で即時荷重インプラントの講演をされたのです。
それは衝撃的内容でした。

即時荷重インプラントを次々と成功させていて成功率95%以上と言う、当時としては圧倒的なデータでした。

凄い、この人は凄い人だ、と確信し、講演後の質疑応答に私自身も混じり、そこで即時荷重成功のコツ、を色々と沢山教わりました。

それから、私は即時荷重インプラント治療を私自身の使命、本道として邁進するようになったのです。
その後、紆余曲折があったのですが、添島先生の励ましもあって、私は即時荷重に取り組み続けました。
その当時、即時荷重インプラントは日本では完全に反対される、してはいけません、と言う治療方法でしたので、それはそれは色々と苦労しました。
それらに対して、添島先生は、それ位の仕事を男はしなけりゃいかん、と言って応援して下さいました。
そのお蔭で、何とか挫けずに頑張り続けられ、ありがたいことに患者さんに支持されて、頑張れました。

私自身の即時荷重インプラントの成功率は、ラム先生の成績よりも良く、自分もなかなかやるんじゃない、なんて思ってました。

サンフランシスコでの研修

そんな時に2003年AAPがサンフランシスコで開催される、と言うことを聴き、再び参加しよう、ラム先生のおひざ元だ、もしかしたらラム先生の所に勉強に行けるかもしれない、と思い付いたのです。
それで、図々しくもメールでやり取りして、見学させて欲しい、研修を受けたい、と熱望しましたら、何とOKが出たのです。

AAPの前の1週間、クリニックの見学に来て良い、個人レクチャーしていただける、と言う話になったのです。
信じられない幸運な話でした。

即、一も二もなく私は行きます!と返事をしました。 この時の決断を、私は自分で自分を褒めてやりたい、、自分の人生の中で最も良い決断をした、と思っています。

その個人レクチャー、研修が、私の今の道、圧倒的な低侵襲処置でのインプラント治療、歯周病治療、口腔外科治療に方向付けしてくれたのです。
AAP開催される直前の1週間、それはそれはとても濃厚な研修をしていただけました。

1日4,5回の手術があり、インプラント、歯周病の手術を次々と解説して下さりながら見せて下さるのです。

その内容の濃さに、ハンマーで殴られたかのような衝撃を覚えました。

それまで習って来た手術とは全く違う、徹底的に切らない、開かない、縫わない、ごく小さい手術でやっておられたのです。

本当に凄くビックリしました。

何なんだこれは!!?でした。

でも、その成果も見せていただけることができ、これは良い、患者さんがとても楽そうにしている、腫れないし痛がられてない。
こんな凄いことになってるのか、世界は!!!と思いました。(後にそうではなく、ラム先生が凄かった、と分かるのですが)

即時荷重インプラントの真実を見る

感動感激の研修が終わり、AAPサンフランシスコ大会に参加しました。

ところがです、そこでは従来通りの私が知っている手術方法、治療方法ばかりで、ラム先生の方法は全く出て来なかったのです。

これは何なんだ?世界はどうなってるんだ?と不思議で仕方がありませんでした。

そして、その学会でも即時荷重インプラントは懐疑的見方をされていたのです。

エーーーーッ!でした。

だって、ラム先生は次々と解決し、成功させておられ、私だって日本の地で97%以上成功させられていたからです。

又、何よりも手術術式、ラム先生の切らない開かない縫わない、が出て来なかったのです。
なんじゃこりゃ?と正直思いました。

そこで、私はラム先生掴まえて、素直に質問をしてしまいました。

「先生に教わったことが、学会の発表に出て来ない。どう言うことなんですか?」と、

その質問を聴いた時のラム先生のお顔を私は生涯忘れません。
何とも言えない、笑顔、ニヤッと言う実に楽しそうなお顔で、こう返事をして下さったのです。

「ノリ、お前は真実を見た。俺のことを信じるかい?」と、です。

その時の感激を、背中に電流が走るくらいの感じを、私は今でもまざまざと思い出します。
「イエス!!!マイメンター!私は一生あなたを師匠として着いて参ります。」と答えました。

私は、その時に初めて悟ったのです。
ラム先生は、本当の世界の最先端で素晴らしいモノを惜しげもなく伝授して下さったのだ、と。
まだ、世界の最高の学会にすら出て来ないレベルの、本当に凄いモノを教えて下さったんだ、と知ったのです。

感激に打ち震えました。

私の即答を聴いて、ラム先生はノリ!と言ってガシッと肩を抱いて下さって、右手の親指をグッと立てて下さったのです。(これは、後にfacebookが始まり、いいね!のサインとして世界中に広まりましたね。)
さすが、シリコンバレーのトップのDRだ、と思いました。

そして現在

院長とDrラム

そうして、帰国後ラム先生の方法を日本人向けに独自に改善改良して、今の私があります。

私独自の即時荷重とは、部分的に歯がない患者さんを救う方法で、他の即時荷重とは全く違います。
他の即時荷重では、即時荷重する為に残っているは全て抜歯して、全部インプラントにしてしまう、と言うやり方です。

私のやり方は、歯のない所だけ即時荷重インプラントして、残せる歯は救う、歯を大事にする部分即時荷重です。
このやり方を徹底しているのは、私しかいません。

その成果を2004年2007年とボストンPRD大会2回連続で発表させていただきこともできました。
そのことで、業界内で私のことを知り、認めて下さる方も出て来るようになりました。

その後、ラム先生の元に何度も学びに行き、その真髄を教えていただけました。

2014年には念願のラム先生の来日公演も実現できました。

こうして、今私はオリジナルの手術術式、考え方を広める為に頑張っています。
専門誌への連載も10年以上続け、自分自身の勉強会も2011年から始めています。

2000年から即時荷重インプラントを本格的に始め、2003年からは切らない、剥がさない、縫わないごく小さい手術の低侵襲手術に取り組み、今現在では全ての手術で腫れない、痛くない、怖くない、辛くない、を実現しています。

これらの分野では、私が日本でのパイオニアであり、広めて来たDRです。

院長略歴

院長略歴

1987年、日大松戸歯学部卒業後、勤務医を11年余り過し、技術を磨いて開業致しました。
最新の技術をこなすために、KIRGインプラント100時間・船越歯周病1年コース、くれなゐ塾etc多数の講習会に通い、今も継続して学び続け、日々の臨床に活かしています。
最新・最適の歯科治療を常に提供しています。
2004年6月ボストンのPRD学会にて全世界2000人以上からわずか24人に選ばれ発表して大好評でした。2007年のPRDでも再び選ばれ、2回連続して即時インプラントの発表をしてきました。
「未来は理想の夢の実現である!」がモットーです。

※PRDとは、ボストンで行われる3~4年に2回しか開催されない業界最高権威のある学会のことです。

研修その他

研修その他

KIRG,船越ペリオ全コース、くれなゐ塾、臨床基本ゼミ、東京筒井塾、IPOIインプラントアドバンスコース、FSA,IDEA即時荷重インプラントコース、CEベーシック、アドバンスコース等多数受講。
現在も尚週末は研修に明け暮れる。